2018/04/08

芸術におけるモデルの立場を考えるきっかけ

アラーキーこと写真家の荒木経惟氏のモデルをしていたKaoRi氏が、告白をしました。ヌード撮影の時は、部外者が立ち会うことを望んでいないのに、部外者を入れて撮影されたりした。そういう数々の望まない撮影で、死んでしまおうと考えるほど、精神的負担を受けたというのです。

このKaoRi氏の告白の中でも触れられていますが、現在ニューヨークで開かれている展覧会では、
男性写真家、それも有名な写真家である場合、女性の身体を使った芸術行為への合意形成における力関係を操ることができる、と問題提起している。
とのことです。(引用元)

私もアラーキーの写真展を見に行ったことがあります。でも、その時は、「女性モデルの意思がねじ曲げられて撮られている」なんてことは、考えてもみませんでした。

ただし、そういう視点を持ち合わせたとしても、結局、写真は世に出された形だけが評価の対象となってしまうのです。モデルの意思まで込みで、写真を評価するということは行われにくいと考えます。

だから、撮ったもの勝ち、主導権は写真家にあることになります。

とはいえ、「写真のためなら、モデルの気持ちはぞんざいに扱われてもいい」という考えは誤りだといえます。写真という芸術活動と、モデルの気持ちとの間には、優劣はつけられないものだからです。

そのようなモデルの立場をどうすれば守ることができるのか。契約で取り決めをするというのも一つの考えだと思います。契約によらずに何かできることはないのか。考えてみたいと思います。